昭和51年08月23日 月次祭



 信心をさせて頂いて信心が段々分かって来る、信心が段々身について来るという事は、今まで何でもないと思うておった事が、何でもないどころではない、広大なおかげであると分からせてもらう。今まで気付かなかったところに、おかげを感じさせて貰い、当然当たり前と思っておったような事柄の中に、いよいよ神恩かたじけなしという心が、頂けて来る様になるという事が、信心が分かったというのであり、信心が育っていっておるという事になるのです。お願いをするおかげを頂く。
 それでもそれを本当のおかげと実感しきらない。これは初めの間はまぁ皆んなそうですね。今日私今ここに付かせて頂いたら手紙が来とった。熊本の山田さんという方から、それで皆さん次々とお取次なされるので、あのまぁその合間合間に読んで、まだ半分ぐらいしか読まなかったんですけれども、丁度三ヶ月ぐらい前に息子さんが、今アメリカに行っておられます。お嫁さんが今度出産をされると言うので、色々まぁお婆ちゃんとして孫へのいろんな準備やらも、まぁしたいと言う訳でございましょうか。
 お名前を頂きたいという。まぁだ三ヶ月先にしか生まれんとに、私はもうこんなお届けが一番嫌いなんですけれども、それでねもう随分ここにも参ってお見えて、おかげも受けておられるんです。けどもそういう先例が幾らもあるもんですから、やはり親先生からお名前を先に付けて頂きゃ、まだ三ヶ月あるから娘の名前を頂きゃ、娘の準備をさせてもらおう。まぁそういう様な便利からじゃなかったかと思う。だから私はねそういう事よりも、安産のおかげを願いなさいととまぁ言うて。
 まぁ分かりましたと言った様な顔をしておられましたら、神様からすぐやはりお名前を頂いたんです。まぁそんな事はねそれが信心じゃないよと。そらりゃなるほど神様が見通し、または聞き通しの方ですからね。おなかの中の赤ちゃんが、今度は娘が生まれよる、息子が生まれよるぐらいのこつは、ご自身がお作りになったんだから、分かりなさらん筈がない。けどもそういう事に気をてらうような事が信心だという事になると、信心を合楽の信心を間違うとると言われても仕方のない事になるからね。
 と言いながらもほんなら神様はやっぱり下さるところを見ると、その願いに応えて下さる訳である。それから今日の手紙を見せて頂いとりましたら、先日の大祭にお礼に出てきたけれど、私とお会いが出来なかったからと言うて、細々と便箋四、五枚に書いてあるのをまだ半ばしか読んでおりません。それにアメリカの方から通知があって、やはり娘が生まれたと言うのです。ところが私もここでお名前を頂いた時に、あんまり好きな名前じゃなかった。
 頂いて帰って主人お爺さんに言うたら、こげなな前じゃいかんち言うてからもう言われた。どうしようかと迷うておりましたら、いよいよもうあの娘が生まれたと言うて参りましたから。それでまぁまぁだ詳しくは見ておりませんけれども、そのうまぁ姓名判断か何かなさるところじゃないでしょうか。そこへ相談に行かれたら、「この名前は誰が付けなさったつですか」ち。「これは合楽の親先生から、金光様の先生から付けて頂いたつです。」「こげなな前はとても私どんじゃ付けはきらん」ち言わっしゃった。
 こらもう将来大繁盛する名前ち。それからあただにようなって有り難うなってから、やっぱ神様から頂いたつは良か、有り難かねち言うて、じっちゃまが言うごつなった。それアメリカの方へもそれを言うてやったという。そこ変の所迄読ませて頂いてね。嫌やぁな感じがする訳です。本当に自分の思うような名前であったり、良い名前であったら嬉しい。しかもそのまぁだおなかの中のその赤ん坊の名前を頂きながら、もう本当に大それた事を言うたり思うたりする、まぁものだなと私は思うんですけれどもね。
 いうならばおかげをおかげと頂けない。神様がどういう思いでこのお名前を下さったか。しかもほんなら生命学から言うても、将来はそれこそ家繁盛するような、おかげの頂けれるような素晴らしいお名前であり、名前を頂いておりながら、ね好かんと思うたり、おじい様はこげなな前はいかんと言うてケチをつけたりね。あただにその専門の方が、これを良い名前だと頂いたから、あただに良い名前になったと言うのですね。本当におかげをおかげと頂ききらない。
 ちょうどその手紙を半ば読みよる時に、嘉朗さんのお導きで、久留米からご夫婦の方が参って見えた。結婚して五年にもなるけれども子供が出来ない。お願いさせて頂いたら御神米が二体下がった。それで今度生まれて来る赤ちゃんのための御神米と、私はその言葉を一言添えて御神米を下げました。まぁだ恵んでもいないのです。だからこれはもう必ず恵まれる事は間違いない訳です。そしてほんなら恵まれたというてもです。ただ自分どんが頑張ったから出来たぐらいな考え方では、神様に対して相すまんね。
 私はねまぁこれは極端なお話ですけれども、本当におかげをおかげ神様の思いを思いとして、分からせて頂く信心にならなければいけないという事でございます。今日二時から福岡の上原さんという方のところの、ご両親の式年祭がここでございました。ある教会におかげを頂かれましたけれども、ある事情で信心を止められた。それでもやはりあちらで改式までさせて貰うてお願いをしておるのだから、こちらでお祭りをして頂きたいというので、まぁ今日はそのお祭りをさせて頂きました。
 神様にその事をいろいろと、もう本当にもう前々からお願いにお願いし、お供えなんかでも、もうそれこそあれこれと二柱の御霊様ご両親の御霊様ですから、取分けの事でしょうけれども、思いを込めてのお供え物なども心を込めてなさいました。でその事を神様に私お礼を申させて頂いておりましたら、そのう昔はあのう三味線の箱は桐箱で出来ておりましたよね。今はもうカバンのこう下げていくごたるとになっております。
 昔はこうきちっとしたこの深さぐらいな桐の箱に、きちっと言うなら折りたたんで仕舞うようになっておりました。その三味線をね一番口に、あのこうて一番上のところを、天神と申しますね。上のこう曲がっているところ。一番上のところをそしてその竿が幾つになってそして胴であります。それを全部取り出してしかも私がそれを全部、あの三味線の形にしてそして調子を合わせておるんです。しかもその調子が本調子に合わせておるという御神願を頂きました。
 私は本当にあの思いましたんですけどもね。あの先祖のお祭りをすると。子供が親の御霊のために目に見えません。催促も致しませんけれども、それを式年だからと言うので、思いを込めてするという事が、親が喜ぶという事ではなくて、神様がお喜び下さるという事です。いわゆる天神ですね。天の天神です。神様が喜んで下さりその喜びは御霊にも伝わる事でもあろう、同時にまたそれを奉仕させて頂く、遺族のものもまた喜びを与えて頂き、これから本調子の信心にならせて頂いて。
 いうなら本調子のおかげを受けていくことです。私がそれを頂いてから思わせて頂いた事でしけれども、この御霊はあるやっぱりお徳を受けると、先生のところで改式をしておりますから、治まるところには治まっておったという感じですね。三味線がこうせっとそこに詰めてあった。けれどもそれをね御霊ながらの働き、御霊ながらの働きが出来れるところまでは行っていなかったという事です。私は改めてね合楽で皆さん御神縁を頂いて、おかげを受けておられるという方達は。
 改めて合楽に御縁を頂いておるという事を、もちっと有り難いと思わなければいけないなぁという事を感じました。これは私が昔若い時に道楽しておりますから、三味線を稽古しておる。だから私は組む事も出来れば、いうならば調子合わせる事も出来れば、又はそれを弾き奏でる事も出来る訳です。という事はいうならばその御霊を自由自在に、私は扱う事が出来れる、おかげを頂かせる道も、説いてやる事が出来るという意味だと、私は思いました。
 電工さんが生の電気を扱えなかったら、一人前ではないと言われるそうですが、私は今日あのう皆んなに申しました事でしたけれどもね。お取次させて頂くならば、人間氏子のお取次をさせて頂くということもだけれども、目に見えない魂の世界で、または苦しみまたは悩んでおる、御霊を救い助ける。暗黒の中から光明の世界に、出してあげれれるだけの力を頂かなければ、ただ形だけの御霊様であったり、神様であったりしては出来ない。実感としてそれがおかげの頂けれる。
 おかげを頂かなければならんというて、まぁ申しました事です。今日日田の田舎の方から国師さんのお導きで、いわゆる難儀な親子の方がお参りして見えられました。顔にこう赤いほやけが出来ておられるのです。合楽では幾人もそういう人がおかげを受けられたという話を聞いて、まぁおかげを頂きたいというて、見えられた訳であります。お取次ぎさせて頂いておりましたら、着物は綺麗な着物を着ておるけれどもね。この下から出ておる肌着がちょっと垢沁んておるお知らせを頂きました。
 これはさ程に綺麗ではなくても、下に着ておる下着がすっきりと垢抜けをしときませんと、着ても気持ちが悪いし又ちらっと覗いた時にです。どんなに良い着物を着ておっても、下に汗じみたとか垢のあるようなものを着とってはいけない。それよりももっと目には見えない、この中のものお腹のものね。いわゆる心が汚かったら尚更の事。形に見苦しいと言うものがあるならば、先ず心に見苦しいものがあると悟らせて頂いて、先ず一つ肌着からそしてま一つその向こうにある。
 これは信心の教えを頂いて信心の教えを鏡にしなければ、どこが汚れておるかどこが歪んでおるか曲がっておるか分からない。教えの鏡を立てると自分の心がありありと分かって来る。そこから改め直していくというおかげを受けなければならない。そこでです私共がね目に見えるところより目に見えないところ。いうならばちらっとしか出らない下着でもそうなのですから、全然見えない心の中というものはです、覗いてみた事もない。鏡を立てたこともない。信心によって初めて鏡を立てる自分の心が映し出される。
 はぁこれではおかげが受けられないと、悟らせてもろうておかげを頂かにゃいけません。そこからの信心。昨夜田主丸の共励会でしたから遅うから、終わって文雄先生がいつも、何かと御用に来てくれます。御用させて頂きながら、色々私に話をしてくれます事の中に、福岡に今度創価学会の大きなお家が出来た。二億円からかかって創価学会の看板というならば、創価学会は決してその金銭を要求しないという事が看板だそうです。幾ら納めにゃならんという事は、決してないという事です。
 ところが行ってみるとずうっとその、沢山の人が一遍に出来るように、そのちゃんと状袋が置いてある。そしてそれにご供養と書いてあると言うのです。私はそういう事は別としてですね。それがもう参ってくる者は全部その、ご供養の袋に何がしかのやはり、まぁここでいうならばお初穂でしょう。そのご供養のまぁお金をまぁ包んで、そしてまぁ礼拝をなさる訳でございましょうけれども、そのご供養という事を聞いた時に、何かね私は何か私の心の中に響いて来るものを感じた。供える養うと書いてあります。
 もちろんそれは仏教の事ですから仏様。お先祖様のご供養になると説くならばね。心は神様へ向かい仏様に向こうておる者ならば、何がなしかのお供養はしなければおられないでしょうするなと言うても。そのご供養が真心から出来る信心。そこにはね御霊様が養われなさる事。私は今日の霊祭を仕えさせて頂いて、実感しました事でしたけれども、目に見えないところを大事にする。ご先祖を大事にする。今日の御霊様はいうならば、娘さんがご両親の御霊様を、丁寧にお祭りをなさった訳であります。
 目に見えないところを大切にするという事が、どのくらい天地の親神様の感動であり、お喜びであるかという事でございます。目に見えないところを大事にしなければいけません。それもせずにはおられないものでなからなければなりません。ただ形式にまぁお坊さんを呼んで、ご法事をしたと言った様な事では出来ません。そういう目に見えないところを大切にするという事が信心であります。目に見えないところは心です、それからご先祖ね。それを大事にしなければおられないところからです。
 今まで気が付かなかった、目に見えなかったところのおかげが、おかげとして見えて来るようになります。それは不思議です。神様がお喜び下さるのですから、神様の歓びが御霊に行き、また御霊のもうそれこそ今日でも、そのお祭りを仕え終わらせて頂きゃ、ここでその頂いた事を伝えさせて頂きましたけれども、もうそれこそ相手方内々にくれて、まぁこんなに有り難い御霊様のお祭りをして頂いた事は、初めてだったと言うて、感激されましたね。奉仕した者も感激ならば、神様が第一喜んで下さる。
 もちろん御霊様には供養という事になった訳ですから、お喜びにならないはずがありません。信心とは目に見えないところね。それを大切にする事が楽しみになるという信心。そこに神様の感動があり、こちらへ伝わって来る喜びがありね。その喜びをもって見る時に聞く時に全てがおかげである、おかげだといよいよ深く広くおかげを実感する事が出来るのです。信心の喜びをもってしないと喜びを発掘する事は出来ない。気が付かなかったところを、ただ教えてもろうてね。
 これもあんたおかげですよと言われても、はぁそらそうですなの、おかげではいけない。心の底から湧いて来るものでなからなければいけない。今日桜井先生が、昨日佐田さんの共励会に行って、文雄先生が話を聞かせてもろうて、本当に最近有り難い心の中に、どうしても分からなかった事が、何か分からせて頂いた。これを悟りと言うのであろうかという話をした。私は信心は悟りだと思う。言われてから分かったのでは、有り難いものはついてこない。
 そこで私共がその有難いものが、自ずとこれからいただける事のために、ひとつ目に見えないところを、いよいよ大事にしなければいけないという事です。心を大事にするお先祖を大事にする。そこから神様の感動がある。そしてその感動がこちらへ伝わって来る。いわゆる御霊様へ伝わっていくという。その感動をもって見る時に、あれもおかげであったこれもおかげであったと、いう世界が開けて来るのです。もう本当にもういうならば、こんな不思議な事があろうか。
 おなかの中に赤ちゃんが宿らせて頂いた。ただ自分の勝手で女子じゃろか、男じゃろかと言わんばかりに名前を頂いて、そしてその名前が気に入るのいらんのと言うて、三ヶ月間はもうずうっといかんのうやち言うちから、爺さんと婆しゃんが言いよる。もうその間神様がどげな思いをしござっとじゃろかと。それでいよいよこんだ生まれたというて来たところが、やっぱりやっぱそれこそ、やっぱ合楽の親先生じゃあるのという話が出たでしょう。まだ先読んどらんから分からん。
 けれども娘が生まれたと言うて来たから、それでも気に入らんから、姓名判断に行ったところが、こげなな前は私どんじゃ付けはきらん。こら素晴らしいお名前だと。しかもそれは将来繁盛する名前と聞いた途端に有り難うなった。有り難うなったらそれが良うなった。だからそういうところからです。おかげを自分の思うた通りのおかげを頂かなければ、有り難いと思えないようなところからです。これでは何時までたっても、さぁ神様とは不思議なお方じゃあるぐらいな事で。
 何時までも自分の上におかげを頂き現す事は出来ません。それを分かるためにはどうでも、自分自身の心の中を大事にさせて貰う。目に見えないところを大事にさせて貰うね。心が綺麗になるところに、そんならこのまぁ子供さんの見苦しい、その赤ぼやけも消えるようなおかげになって来るだろう。自分が改まらせてもらう。そしておかげを頂く。そこにいわば本当の信心がある訳です。ただお願いをしてお願いが自分の思う様になった時だけが有り難い。
 それと反対の事は、おかげ頂きらじゃったと言うものじゃなくてね。それを私共がおかげをおかげと気付かないし分からないからです。それを見る目がないからです。肉眼で見ておるからです。心の目を持ってするならば、それが全部おかげであると分かるのですけれども、心の目が開ける事のためにもです。いよいよ目に見えない心を大事にしなければならないという事でございます。
 昨日宮崎の網さんという大変おかげを受けておる方があります。その網さんが今度取引をされたいわゆる例の銀行です。もうそれこそ全然見も知らない網さんにもう、初めから四百万という大金をまぁね、幾ら値打ちがないと言うても貸されたです。しかも銀行の支店長さんがです。もう本当に感心しながら貸されたというんですから、後から考えても不思議で不思議でたまらないでしょう。それでそれから次々とその網さんが、おかげを受けていかれるのに、今度は支店長さんの方がびっくりされておる。
 そしてその支店長さんのその銀行にやってくる、大きな砂利採集をする方達がおられる。その方達がそのう大変難儀な問題を抱えておる事を聞いて、とにかく私は参った事はなかけれども、一遍合楽の金光様に参りなさいと言うので、昨日二夫婦の方がお参りをして来た。一人の方はもうとにかく砂利採集ちゃこげん儲かるものはなかです。だからこげん毎年毎年儲からせて頂いて一遍にだぼぉんと、やられる様な事がありはせんじゃろかと思うと、寝覚めが悪いち言う。人間ちゃそんなもんですね。
 そしたら本当おかげ頂いておってもです。今度何時またあのうそっとあれ、その儲かるとが反対するようになるような事が起こりゃせんじゃろかと、不安な気持ちが起こってくる。人間にはそんなものがあるです。調子が良ければ調子が良いで、そういう心がいわゆる不安な心が募って来る。そして一人の方は同じ同業ですし、歳も一人は六十六歳。一人は五十二歳か三歳かですし。反対にこの人の方がおじさんのごつしてある。
 それが去年こう半身不随になって、まぁどうやらそのう身体の自由だけは利くと、いうぐらいなおかげを頂いておる。だからその支店長さんのお話を聞いてね。ほんならこういう難病でも助けて貰えるなら、ひとつお参りしようじゃないかという、そういう二組の砂利採集をなさる方で、一人はあんまりおかげ頂きすぎて心配な。一人はもうそのうこれから先が真っ暗な思いがする訳です。そこから助けてもらいたい。まぁどちらにしてもおかげを受けなければならない。
 有り難いですねあの合楽示現活動というのは、決して皆さんじゃありません。皆さんの一生懸命の祈りが全然信心のない、言うなら宮崎の○○銀行の支店長さんが。そうしてお導きをされた。それも網さんがもうそれこそ、あの次から次とおかげを受けていかれるのを目の当たりに見てですね。とにかく合楽に参りなさいと言うて進められたと言うて、まぁ参って見えられたんですね。
 だから信心させて頂いておればです。有り難い事であれば有り難い事がいよいよ募ってくるのですから、子孫繁盛家繁盛になるのです。又はどういう難儀な事が起こって来てもです。いよいよ神愛を分からせてもらい、肉眼を置いて、心眼が開けて来る頃になるとです。神愛が分からせてもらう。いや神様のお心が分かるから、それが有難くなって来るのです。いわゆるファイトが沸いてくるですね。
 だから信心がなかったら良かっても悪か悪かっても、なお悪かと言う様な事です。信心させて頂く者と無い者がね、親のある子とない子程の違いと言われる事が、はっきり感じられるようなお二組でございました。ですからお互い信心をさせて頂くのですから、親のある子とない子程の違いと思われる程しに、自分の心が助かっていかなければです。信心頂く値打ちがないという事になるのです。
   どうぞ。